本来、水曜が初校=最終校の校了だったのですが、
金曜の朝まで見といてもらっていいですよ、と
少しお時間をいただいたので、ひきつづきチェックしていたら、
またぽつぽつと間違いを見つけてしまい、
仕事に行くギリギリの時間までやってから家を出ました。
「金曜の朝」をむちゃくちゃ拡大解釈して
金曜の午前中までやってたのですが、
けっきょく、連絡したのは12時を少し過ぎてしまいました。
大丈夫かどうか、仕事先から休み時間にちょっと電話を入れたら、
まあなんとか間に合うということで、ほっとしました。
しかし、帰宅してからメールチェックをすると、さらに印刷会社の方から
「××頁のこれは間違いでは?」というご指摘が・・・。
それがけっこう重大なミスで、あわてて修正をお願いしました。
そしたら、すでに修正済みだというお返事が。
ああ、ほんとうに有難いことです! もうなんといって感謝すればよいかわかりません。
真不知怎么感谢您才好!
何度も目を通したはずなのですが、やはり間違いってあるものですね。
***
なお、2016年12月8日付朝日新聞朝刊に、「留年は破滅ではありません」という見出しで
『張韶老師の二胡講座』上下巻の表紙デザインを担当してくださった
杉原保史氏の記事がのっていました。
もともとのご専門は臨床心理学で、これは京大のサイトに掲載されている杉原氏の一文が
広く共感を呼んでいるという内容でした。
自分も、卒論の締切日の朝、徹夜明けでもまだ終わらず、
もう間に合わないかも知れない、と諦めかけたときに
ほんとうに頭の中が真っ白になるような経験がありましたから
(けっきょく、締切ギリギリで提出は間に合ったのですが)
記事にあった杉原氏の、窮地の学生さんの心に寄り添ったことばは、
とても胸に響きました。
特に、
大学をやめるという選択肢を検討することは無駄ではないはず。
その上で続けるという選択は、より積極的で能動的なものになるでしょう
という一文が印象的でした。
なんというか、「××しかない」という考えは、
人を追い詰め、心を傷つけてしまいがちです。
留年せざるをえないという事態は、
学生さんにとってまさに死活問題ですから、なおさらでしょう。
しかし、そこでいちど立ち止まり、自分が選べるいくつかの選択肢を想定する。
そのうえで、改めて「留年する」という選択肢を選び直す、という作業をすることは、
たとえ「留年する」という結果が同じであろうと、その心持ちは全く違います。
「留年」は「せざるをえない」ことから、「自ら選び取った」ことになるんです。
このようなプロセスを経るということは、いま学んでいるアレクサンダーテクニークの学校で
習ったことと根底では通じ合うと思いました。そして、学校でそれを習ったとき、
『七つの習慣』にも同じ事が書いてあったな、と思ったのです。
楽器のレッスンでも、日常生活の動作でも、日常の思考でも、
まずとても豊かな「選択肢」があることに気づき、それを自らの意志で選び取る、
というプロセスは、全く同じなんです。
それはなにか特定のメソッドというわけでなく、人生を豊かに、自由にするための
大いなる智慧の1つであって、それが普遍的・有用なものであればあるほど、
さまざまないろいろな言葉・表現によって、時間や空間を越えて伝えられてきたのではないかと。
杉原氏しかり、アレクサンダー氏しかり、コビー氏しかり。