《コンテンツ》
●集中しないと間違える?
●ズームとフォーカス
●手放す、ということ
2018年1月31日の「二胡を楽しむ会」のときに思ったことを書きます。
●集中しないと間違える?
今回の演奏の目標は、「手放すこと」でした。
実は私はF調第1ポジションの内外弦をうろうろする快弓が苦手です。
例えばこんな感じ。
(上は「北京有個金太陽」、下は「阿美族舞曲」の一部分です)
これらについては、右手・左手それぞれにかかわる原因と、
それに対処するいろんな練習法がありますが、
これらについては、また改めて触れることとして、
今回は別の方面から考えてみることにします。
で、話を戻すと、そういうところを取り出して
インテンポで練習しているときに、ふと、前のクセが
顔を出していることに気づきました。
前のクセとは、インテンポで
「ここは内弦、ここは○指、そして指を離すタイミングを。。。」と
1つ1つの動作を、懸命に、細かくやっていたこと。
(もちろん、譜読みの時はゆっくりと動作を確認し、
自分が何をすれば良いのかを明確にさせる、という過程がありますが
これはそれとはまた別の話です。)
そして、それを間違えなかったり間違えたりするとき、
「油断すると間違える」「間違えないように集中しなきゃ」
とつねに考えていたことです。
しかし、「間違えないように」「集中しなければ」という自分へのオーダーは
いろいろな問題点も混ざっています。
まず、「間違えないように」は音楽の本質ではないような気がします。
人は「間違えない演奏」を聞きに来ているのでしょうか?
私は「間違えないために」二胡を習い始めたのでしょうか?
(※ついでにいうと、(よく言われることですが)
否定形のオーダーはあまり効力を発揮しません。
「Aしないように」というと、逆に「A」のことばかり
気になってしまうのがヒトの性です。
「Aしないように」ではなく「Bしよう」と自分に指示するのが効果的。
そして、その「B」とはなんなのかを考えるためにも、
「間違えないために」ではなく、なんのために音楽をやるのか、というところに
立ち戻っていく過程が必要なのではないかと。)
ズームとフォーカス
次に、もうひとつの「集中しなければ」についても考えてみます。
『ピアニストならだれでも知っておきたい「からだ」のこと』や
『ヴァイオリニストならだれでも知っておきたい「からだ」のこと』では
「集中(concentration)」ではなく「包括的な注意力(inclusive attention)」を
を心がけよう、とあります。(後者6頁)
これってすごく大切なことだと思うのですが、
ただ、文章表現として、別の何かの本に
「ズーム」ではなく「フォーカス」(focus)する
と書いてあった箇所があり、私には、そちらの表現のほうが
より、腑に落ちました。
(ただ、残念ながら出典が見当たりません。
また探してみて、分かったら後ほど付記します)
出典が見つからないのでうろ覚えですが、おそらくその文章では
カメラでの撮影に例えていたような気がします。
「集中」はズーム。
ある一点のみすごく細かく見ることができますが、
その周りの状況はまったく分からない状態。
それに対して、「フォーカス」は、ある一箇所にピントが合って
そこが鮮明に見えており、さらに、その周りの状況も、
ぼんやりとではあるが、ちゃんと見えている状態。
確か、そういう説明だったような気がします。
例えば二胡をひいていて、腕を動かしていても、
腕だけが空中に切り離されて動いているわけではないです。
身体は骨や筋肉で全体とつながっており、
そして、腕の動きは、頭・胴体・足などの他の部分の状態と
密接に関わっています。
だから、腕や指など、いままさに使っている部分だけに
「集中」しても、うまくいかないことが多いです。
そのため、全体を統括する意識が必要だなと。
それが実現しやすいのが、
動いている部分にのみ焦点をあてて
他を見えなくしてしまう「ズーム」ではなく、
焦点をあてつつ、ちゃんと全体が見えている
「フォーカス」の意識のほうではないかと思うのです。
このことは二胡の杉原圭子先生のレッスンでも言われていましたが
どうやってそれを実現すればいいのか、よく分からないままでした。
そして今、そのメカニズムと、それを実現する方法が
BodyChanceで私が学んでいる大切なトピックのひとつになっていて、
杉原先生のレッスンから十年余の年月を経て、
やっと道しるべが見つかったような気がします。
で、いまの私(あくまでも現時点のレベルでの私で、
もっと学びを深めたら言い方が変わるかも知れませんが)の理解に基づいて
その道しるべのヒントを述べてみます。
・その能力を発揮するために、全身の情報を受け取りつつ、
全身の筋肉に指令を出すという脳-身体のやりとりが
スムーズにできるような身体の状態にしておいてあげる
・そのために、その経路の要である、頭-脊椎の状態を
自由にしてあげることが大事。
この理解を更に深めつつ、いかにそれを実現し、
さらにその経験をどう伝えていけるのか、を
探求していきたいと思っています。
(※ついでですが、「集中しなければ」の「~しなければ」「~べき」
という思考も、どちらかというと身体を固めがちな指示なのかも。
それらの表現の裏にある発想は、どちらかというと、
何かに「させられている感」がしませんか?
自分の「ひきたい/表現したい」という内からわき出してくるような
望みとは、違うところにあるような気がします。)
手放す、ということ
そういうようなことを、BodyChanceで学んでいるなかで、
うっすらと、だんだん理解してきたような気もして
(でもときどき、「やっぱり私分かってなかった?」と原点に立ち戻ったりしつつ)
自分や、他の方がやったアクティビティから学んだことを
実際に、人前で演奏するときに試してみる場。
試してみて、そしてそれを生徒さんにどう提供しようかと考える場。
「二胡を楽しむ会」の目的の1つを、上記のように設定することで、
より、モチベーションもあがりました。
ということで、初めに戻りますが、ひとまず
今回の演奏の目標は、
「手放すこと」
でした。
「間違えないように」「集中しなければ」という発想を手放す。
細かいこと=「部分」を、必死にコントロールすることを手放す。
手放すかわりにやることもいろいろありますが、
今回は阿美族の舞踊の部分なので、
リズムに乗って、いきいきと踊ろう、と思いました。
これまでだったら「難しい」箇所が、楽しい、ワクワクする箇所になりました。
阿美族はなんどか人前でひいたことがありますが、
こんなに楽しめたのは初めてでした。
今回はこんなところです。
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ふああああ・・・
お
まんぞく