●すでに備わっている「協調作用」
●選び取ることの重要性
●「なぜ」練習するの?
前のブログ「選択の自由-1」では、かつて読んだコビー著『七つの習慣』で印象に残っていた「選択の自由」という概念が、アレクサンダーさんが書いた「テクニークの進化(Evolution of a Technique )」という文献の中にも見かけたことを記しました。
両者の違いは、「選択の自由」を行使するために、コビーさんは「人間の人間たる四つの独特の性質」(自覚・想像力・良心・自由意志)を用い、アレクサンダーさんは「抑制」を用いることです。
しかし、私は2つの点において、アレクサンダーさんの考えの方を選択しました。
それは、
- 「原則」と違い、「協調作用」はニンゲンにあらかじめ備わっている
- 「選択の自由」が、身体活動=演奏活動と直結している
からです。
以下に詳しく見ていきます。
すでに備わっている「協調作用」
アレクサンダーさんは、本能や習慣による「いつもの」動きや思考から自由になるには、そのいつもの動きを「抑制」することが必要と言っていました。しかし、抑制以外にも方法はいろいろあって、特にいま通っているBODYCHANCEの先生方は、他の望みに置き換えるということをおっしゃる方が多いです。
じゃあ、アレクサンダーさんとBODYCHANCEの方法は違うんじゃない?と一瞬感じてしまうのですが(この両者も、ケースバイケースで私自身の意思で選択していきたいと思うのですが)、「抑制」「他の望み」のどちらを選ぶにせよ、その根底には、頭と脊椎の関係、つまり「協調作用」を整えよう、という認識においては一致しています。
さあ、でましたよ!
コビーさんの「原則」、そしてアレクサンダーさんの「協調作用」
どちらも難しそうですが、私自身は、どちらかというと、アレクサンダーさんの方法にかすかな可能性を見いだしました。
なぜなら、「原則」というものは、私の理解ではいわゆる規範・道徳的な思想や考え方、行動指針のようなものだと文章を読んで感じましたが、一方で、「協調作用」は人間であったら誰でも基本的に備わっているシステムだからです。
BODYCHANCEのジェレミー校長は、いぜん、自分が変化していくプロセスを分析したもの(=変化のコンパス)を示して、こう述べてらっしゃいました。
アレクサンダー氏の発見を信頼すること。
自分は信頼できなくてもいい。でも、アレクサンダー氏の発見は、人間なら誰にでも備わっているのだから。
と。アレクサンダーさんの文を読んでも分からない。
先生や先輩方に尋ねてもいまいちピンとこない。
しかし、私は人間なので、たとえそれが分からなくとも、すでに「備わっている」ものなのです!
この考えは、自分にとって少し励みになりました。
もちろん、すでに備わっているから何もせずに自然にできるほど、甘くはないです。
なぜなら、現代生活では、イキモノとして生きる以外の、いろんな複雑なこと、自然に反することをやっているからです。例えば、デスクワークしかり、工場等の単調労働しかり。楽器演奏だってそうです。
また、文明社会においては、なぜか朝礼のときには「動いたらダメ」と言われたり、立つときには「気をつけ!」しろと言われたり、不自然なことをしいられます。
こんな例を挙げはじめたら、きりがありません。
そんな生活を強いられた現代人は、自分の身体を不自然に使ったり、間違って使ったりということがほとんどになってしまいました。つまり、協調作用を忘れてしまったのです。
それを取り戻すために、ある程度の時間が必要になってきます。
しかし、もういちど言いますが、それは「もともと備わった」ものです。
新たに獲得するものではないのです。
すでに、自分の中にあるものを、呼び戻すだけなのです。
人より感覚が鈍い、センスもない、変化も遅い。なんかもっさりしている自分。
でも、どういう人間でも「備わっている」ならば私にでもできるのではないか、と、ようやく思うことができたのです。
選び取ることの重要性
アレクサンダー氏の素敵な発見。これをどう音楽に使っていくのか。
私自身についていえば、それは「古い習慣+古い価値観」との互角の戦いを意味します。
たぶん、私が子どもの頃からピアノを習ったり、ブラスバンドに参加したりしていたからだと思っています。この間、何十年もかけて骨の髄までしみついてしまった「長時間」の「反復練習」をよしとする旧来の価値観です。
この敵は非常に手強く、私はよく打ち負かされています。
しかし、それはそれとして、ちょっと立ち止まって、改めて「選択」してみたいのです。
例えば、
「一日×分(×時間)練習しなさい」
「毎日必ず練習すべきだ」
などとよく言われますが、この言われ方に違和感はないですか?
「~しなさい」は命令形です。
二胡は(というかあらゆる行為は)、本来、命令されてするものではないと個人的には考えています。
命令の前提には基本的に選択肢を許さないという考えがあるような気がします。もちろん、現実には命令を拒否するという選択もできますが、命令する方はそれを望んでいないと思います。
少なくとも、自分で選択した習い事である二胡の場合には、それはなじまないと思います。もし先生ができるとすれば、練習することを「提案」し、生徒さんはそれを納得したうえでやってみる、というのがよいのではないかと。
そしたら、その提案を「選択」したのは自分です。自分の意思で選択したのです。
では、もうひとつの「毎日必ず練習すべきだ」はどうでしょうか。
「べき」も、やっぱり命令です。それは自分の中の他者による命令です。
(この存在を、バリー・グリーン等著『演奏家のための「こころのレッスン」――あなたの音楽力を100%引き出す方法』という長い題名の本では、「セルフ1」と読んでいます)。
「~しろ」も「~すべき」も他者による命令という点では同じです。
そこには、自分から「やりたい」と思い、それを選択するという視点が抜けています。
選択という視点はとても大事です。それは、練習に限らず、人生にもとても大事です。
思い出してみて下さい。たとえ自分で「片付けよう」としても、その直前に「片付けなさい」と言われたら、やる気がぷしゅ~~~と音を立てて抜けていくってことありますよね!!
片付けどころか、留年が確定してしまった、という絶望的な状況にあっても、それは同じです。
過去ブログ「留年は破滅ではありません」に、朝日新聞に載っていた記事を紹介しています。
留年確定になっても、そこにまだ「大学をやめる」という選択肢が存在することに気づくことができれば、そのうえで「留年するか/退学するか」を自ら選びとることができます。
たとえ結果が同じであっても、「させられる」「追い込まれる」と「自ら選び取る」では違います。
二胡だって、これらと同じだと思うのです・・・。
「なぜ」練習するの?
「選択すること」については、『七つの習慣』のコビーさんも、アレクサンダーテクニークのアレクサンダーさんも、重要視しているのは同じです。
しかし、わたしはこれまで、それはあくまでも考え方・感じ方の問題だと思っていましたが、アレクサンダーさんの考え方と出会って、また新たな視点が加わりました。
「~しろ」「~すべき」で動かされているとき、人の身体は実際に固まっているのです。
アレクサンダーさんは、思考(心)と身体は切り離せないと考えています。
西洋では、心と体を分離することで近代科学が発達しましたが
(調べると、デカルトが提示した「心身二元論」が嚆矢だとされているようです)
しかし、彼は明確にそれを否定しています。
私たちだって、そのことを経験で知っているのではないでしょうか?
例えば、暴言から身を守る時、私たちはあたかも暴力から身を守るように身を固くします。
暴言はあなたの身体には直接害をあたえません。でも、身体は同じような反応をするのです。
心でブロックしようとするとき、身体もブロックするのです。
先日(2018年8月6日)、朝日新聞朝刊の「折々のことば」に以下のような記事がありました。
思考が縮んだり固まったりすると、身体も文字どおり縮んだり固まったりするのです。
「~しろ」「~すべき」は自分の心からの意思でなく、外部から強制されたものです。
なので、身体は固まります。
(アレクサンダーさんの面白いところは、その逆もありえるのではないかという視点を提示したことです。つまり、自分の思考がマイナス状態に陥った時には、固まった身体を解除してあげれば思考も変わってくる、ということです。このこともとても興味深く、演奏にもすごく関わってきますので、また機会があったら取り上げたいと思っています)。
身体を固めると、人間の身体は動きにくくなります。
演奏とは、身体を動かすことです。
つまり、身体を固める「~しろ」「~すべき」は、演奏を阻害します。
もちろん、練習だって同じことが起こっています。
「~しろ」「~せねば」のもとでやっている練習はあなたの身体を固め、動きを阻害し、十分なパフォーマンスを得られない状態にしてしまうのです。
そんな状態で無理に長時間の練習をやったらどうなるでしょうか?
練習の効果が得られないどころか、故障すら引き起こしてしまう恐れがあります。
練習する前に、いったん立ち止まって下さい。
「~しろ」「~せねば」に無理矢理ひきずられて、思考や身体を固めたまま練習をやっていないでしょうか。
立ち止まって下さい。
練習する/しない/他のことをやる・・・いろんな選択肢があります。
では、あなたは「なぜ練習するのか?」
そこには「こうなりたい」という大きな望みがあります。
「こうなりたい」という大きなYESがあります。
(この「望み」については、また別に取り上げたいと思います)
そこに向かって、もしあなたが練習することを自ら「選択」したのだとしたら。
さあ、練習を始め・・・・
いや、ちょっと待って!
まだまだここは入り口です。
「なぜ練習するのか」の次には、「どうやって練習するのか」ということが来ます。
え、「練習する」って、何回も何十回も何百回も繰り返して身体にしみこませるんでしょ?
スポーツだって音楽だって同じでしょ?
私もずっとそう思っていました。でも、最近、少しずつ考えが変わってきました。
「練習」って具体的に何をするの?
次の文章で改めて考えてみます。
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おそらくニンゲンはこの箱の中で休んでほしいと考えたのだろうと思う。
しかし、ねこは箱の中ではなく箱の上で寝ることを自ら選び取ったのである。