選択の自由-3

●梅田にいくのに南下する?~リーダーのいないマネジメント

●望みの再確認

●まとまらなかった・・・

前のブログ「選択の自由-2」は、

・練習する前に、いったん立ち止まって、「~しろ」「~せねば」に無理矢理ひきずられて、思考や身体を固めたまま練習をやっていないかどうか考える。

・「こうなりたい」という大きな望みがあって、そこに向かって練習することを自ら「選択」する。

・んで、「練習」って具体的に何をするの?

ってとこで終わっていました。

今回はそこから考えてみたいと思います。

梅田にいくのに南下する?~リーダーがいないマネジメント

たとえば、「何時間もやらねば/何度も繰り返しやらねば/毎日やらねば」等々の考え方。

まず、「ねば」が入っている時点で、自分の「望み」ではない何かに「させられてる」感、になんか選択の自由がない感があって、ひっかかります。

でも、もしそれを望んでしたとして、私たちはもう少し練習の「中身」や「質」について考えてもいいのではないかと思うのです。

私自身、練習に対する考えは、徐々に変わってきています。

以前の練習は、とにかく「長さ/反復」でした。

長時間の反復練習によって、自分の身体にしみこませる。

頭で考えなくても、身体が自然に動くようになる。

それが理想だと思っていました。

でも、野球選手やサッカー選手の球に対するスーパープレーは、もしかしたらそうなのかもしれませんが、だとしても、演奏もそうなんだろうか。

表現、って、反射神経なのだろうか。

頭(そこの思考が感情を生み出している)で考えなくても、身体が自然に動くようになる、それで本当にいいのだろうか。

もうひとつ。練習とは、よりよい身体の動き(それはよりよい演奏・よりよい表現のため)を探求するものです。

なのに、ひく、間違う、ひく、間違う・・・をえんえんと繰り返すのだとしたら、逆に、間違いをみちびく身体の動き(無駄な力を入れてしまったり、身体の仕組みに逆らう無理な動きをやろうとしたり・・・)を習慣づけてしまわないでしょうか?

例えば難波から梅田にいきたいのに、天王寺に向かって一生懸命進んでいったらどうでしょう?

進めば進むほど、目的地から遠ざかっていきます。

それなら、止まっていた方(=練習しない方)がまだマシになってしまいます・・・。

(ボディチャンスの先生がよく使う表現です。でも、正確な駅名は忘れてしまいました。
大阪ローカルの話なので、お好きな表現に置き換えて下さい。
たとえば、鳥栖から鹿児島に行きたいのに長崎本線に乗っちゃう、とか)

『七つの習慣』にも、このことを「リーダーシップとマネジメント」という形で表現しています。

・マネジメント=手段=どうすれば目標を達成できるか

・リーダーシップ=望む結果の定義=なにを達成したいのか。

順番はもちろん「リーダーシップ」→「マネジメント」です。

コビーさんは、これを先が見えないジャングルを切り開く人々に例えます。

マネジメントは目標達成のために道具や作業スケジュールや賃金を管理します。

一方、リーダーシップは高い木に登り、ひろく全体を見渡します。

そこで、切り開くべきところはここではないと気づき、下の人々に「このジャングルは違うぞ」と叫びます。

しかし、もしマネジメントが「黙ってろ、作業は順調に進んでいるんだから」と言い放つと、人々は間違った方向にどんどん進んでいくと。

コビーさんはまた、リーダーがいないマネジメントのことを、別の人が「タイタニック号のデッキで椅子を片付けるようなもの」と例えたという話も紹介しています。

これを、

・リーダーシップ=望み(どう表現したいか)

・マネジメント=練習

と置き換えることができます。

どんなにマネジメントが優秀でも、リーダーシップ(望み)が明確ではないと、その練習は「タイタニック号のデッキで椅子を片付けるようなもの」になってしまうのです。

「望み」の再確認

ここで、「選択の自由-2」からもう一歩すすんだ「望み」の再確認をします。

換把(ポジション移動)がうまくいかない。

速いテンポでうまくひけない。

例えば上記のような「壁」にぶつかったとします。

で、「壁」にぶつかって、その練習に取り組む前に、ちょっと考えてほしいのです。

換把(ポジション移動)がうまくいかない。

じゃあなんで換把するんだろう・・・?

作曲者は、なんでポジション移動が必要なほど高い音を欲したのだろう・・・?

ポジションをわざわざ移動するってことは、作曲者(編曲者、または民謡等を生み出した名も無き民たち)が何らかの表現のために「高い音」を必要としたってことです。

第1ポジションの音域では表現できなかったことを、表現したかったからなのです。

それは、具体的には高揚感かもしれない。緊張感かもしれない。高音のもつ透明感かもしれない・・・。

同様に、この曲(「賽馬」でも「葡萄」でもなんでもいいけど)は、どうしてこんな速いテンポに設定したんだろう、と考えます。

作曲者(編曲者、または民謡等を生み出した名も無き民たち)が何らかの表現のために、このくらいのスピードを必要としたってことです。

このテンポでしか表せないもの・・・・それは、躍動感かもしれない。疾走感かもしれない。はたまた、抑えきれない激しい怒りだったりするでしょう。

練習する前に、こういうことを考えてみることは、音楽の「表現」につながる、本当に大切なことだと思うのです。

そして、何より、そういう「表現」を必要とするその曲をひきたいという自分の望み。

たとえ、「先生からやれといわれたからやる」のだとしても、では、なぜそういう事態になっているのかを思い出してみてください。

二胡を楽しみたいから、この楽器をひけるようになりたいな、と思って、先生の門を叩いたのではなかったのですっけ?

多くの場合、特に大人の場合、興味もないのに、先生から強制的にレッスンに通わされているってことは多分ないですよね???

そこに至る過程は、あなたの「選択」によって始まったはずです。そのあたりまえのことをを思い出すと、じゃあなんでこの曲に取り組むのか、という「望み」をクリアにできるはずです。

まとまらなかった・・・

「選択」そして「望み」について、ちょっとうまく文章がまとまらず、3回連続になってしまいました。

しかも、

・んで、「練習」って具体的に何をするの?

というところまでいきませんでした。ごめんなさい。

でも、この「練習」について、まとめていた文章があったのですが、いま読み直してみると、のちほどちょっとした考えの転換があったり、新たに迷いが生じたり、改めて考えこんでしまような出来事に遭遇し、ちょっと立ち止まりたくなってしまいました。

(そのことについては、たまにつぶやいたりリツイートしてたりします。)

そういうことで、ここに掲載する予定の下書きをいったん別の場所に保存し、もう少し練り直してみようと思います。

いずれは、いまの私でも書けることを抽出しなおして、また項を改めて、「練習」についてまとめてみたいと思いますので、続きはもう少しお待ち下さい。

二胡を学ぶみなさんのために、と始めたブログですが、究極的には「自分のため」、自分が歩んできた、迷ってきた道のりを記録していくことになるんだと思っています。

迷い続ける自分を、許してあげようと思います。

*****

近所のでぶねこ。だらんとしてる。

撫でてると、こっちをちらっとみて、どすんと降りてくる

ごろんとして「撫でれ」とこっちを見る。

自分の「望み」に素直に従ってる。

このあと、反対側も撫でれ、とパタンと向きを変えるのだけど、そのとき私が聞いてた携帯ラジオをアスファルトの上に落としてしまい、その音でビックリさせちゃって、ぴゃっと立ち上がってしまった。

ごめん・・・。

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