《コンテンツ》
●譜面によって違う弓と指
●国語の問題を解くように・・・
●「選択」するのは自分
譜面によって違う弓と指
私は子どもの頃ピアノを習っていました。
そのときの経験からいうと、二胡を習い始めた時に、先生が最初にひいてくださった「摘椒」や「田園春色」では譜面にない音がたくさん聞こえてくるようで混乱しました。
いま思うと、滑音や装飾音など、いろんな「オプション」が付いていたのです。
たし、さらにレッスンがどんどん進んでいくと、譜面が間違いなのかなんなのか、先生がメロディの音を変えちゃったり(「喜送公糧」など)、サイズを変えちゃったり(「赶集」や「光明行」など)・・・。
さらに、あとでいろいろな譜面を見るようになると、同じ曲なのに本によって音やサイズが違ってたりするし(「田園春色」「二泉映月」「江河水」など)・・・。
いろいろとカオスなのでした。
そんななか、アレと思ったのがあのドメジャーな「賽馬」。自分が習ったのは、↓のような4小節目(最初の「各的各的」は除いて数える)が分かれてるパターンです。これをAとします。
けど、そうでもないものもあります(↓)。これをBとします。こちらの譜面の方が新しいです。
同じ王永徳先生がからんでいるテキストなのですが、弓が違うのは面白いなと思います。Bは共編者の陳春園先生の考えが入っているのでしょうか?
国語の問題をとくように・・・
では、4小節目を離すのとつなげるのと、どのように違うのでしょう?
私が思うに、Aのよさは、
①7小節目からや22小節目からのフレーズが、裏拍が拉弓になって、ンタ!ンタ!ンタ!って感じがやりやすいこと。
②10小節と11小節のところ、「ラミドラ/ミラソミ」はフォルテだけど、たぶん「ラミドラ」より「ミラソミ」の方がより一層大きいと思うんだけど、そのミラソミの方を拉弓でひけること。
一方、Aの欠点は
③24小節2拍目で弓をつなげるという変則的なことをしないと、25小節目が拉弓つながりにならないこと。
でしょうか。
一方、Bは①②のメリットはないものの、この曲って4小節+4小節の8小節にきれいにフレーズがおさまっているけど、その全部が拉弓で始められて、非常にすっきりして、覚えやすいというのがあるでしょう。
いじょう、ぱっと浮かんだことですが、ほかにも私が思い到っていない、その他のよさや欠点がもっとあるのかもしれません。
運弓に限らず、運指とかも、きっと譜面を作った方が、ああでもないこうでもない、と頭をひねりながら考えているんだな、と思います。
それを譜面から読み取る作業は、とても楽しいと思います。まるで、学生時代に現国の問題を解いているような感じです。出題者が選択肢――とくに、間違えている方の選択肢を作っている時の気持ちを考えて解いていました。
選択するのは自分
二胡を始めたころは、与えられた教科書を与えられた順番で一生懸命練習していました。
帰国して二人目の先生に替わったときも、教科書は違いましたが、先生は最初のレッスンのときに、前の先生からどの曲を習ったかを聞き取り、それ以外の曲を教えてくださったので、やはり、一つの曲につき「正解」は一つだけでした。
その後、「教える」ということを始めたとき、同じ曲なのに、テキストが違うと弓や指が違うということもありました。また、私が習っていない歌謡曲や童謡・唱歌もたくさんあり、そういうものについては、「別の運指・運弓の方がよくない?」と思うこともあり、そういうことをきっかけに、運弓運指について、いろいろ見比べるようにもなりました。
そして、GODYCHANCEでアレクサンダーテクニークを学び始めてからは、「選択肢」があることのすばらしさと、「自分自身で選ぶ」ことの大切さを知ったのです。
もちろん、こちらからいろいろ情報提供はしようと思っていますし、また、自分で「あれ?」と思った運弓や運指も、その譜面を書かれた方(=订弓指法をなさった方)のお考えがあると思うので、それを汲みとろうという気持ちもあります。
譜面を作ってくれた方に感謝と敬意を示しつつ・・・・
(↓は土下座の感じ)
追伸:同じ賽馬を題材にした「やりやすい換弦、やりにくい換弦――賽馬を例に」もよかったらどうぞ。