●本番で起こる不思議な現象
●すべてに使えるアレクサンダーレッスン
●間違えないための練習?
本番で起こる不思議な現象
本番では、いつもなら間違えないようなとこをひょこっと間違えるーー
みなさんは、そんな話題で盛り上がったことはありませんか?
私は、これについて、ひとつ見解を持っていました。それは、とある雑誌に連載していた鴻上尚史のエッセイからヒントを得たものです。
エッセイの内容は、緊張するヒトは緊張さえしなければパフォーマンスがうまくいく、と思っているけど、自分の経験では、緊張しない性格のヒトはいつも一定の結果をだすけど、緊張するヒトは、そのせいで練習の方がマシだったという残念な結果に終わったりする。
しかし、そういうヒトも、なんかの拍子で大化けして、本人も驚くぐらいの素晴らしい能力を発揮することもあり、その時は、緊張しないヒトを遥かにしのぐ、心打つものとなる。
つまり、緊張する場合は、良い方・悪い方どっちに転ぶかどうか分からないということなのだ、てな内容だったような気がします。
うろ覚えなので間違っているかもしれませんが、緊張=悪、緊張しない方が絶対良いと信じていた私にとって、必ずしもそうではないんだということを知ったことは、すごく衝撃でした。
緊張=悪、というのは、私の個人的な経験によります。
南京にいたときに、日本人が二胡をやっているという珍しさも相まって、場違いと言ってもいい大きな会場で演奏したことがありました。私は二胡をはじめて2年目になるところでした。
当時私はギリ20代でしたが、私以外の出場者はすべて、桁違いに二胡がうまい優秀な中国の子どもたち。私は舞台でなんてことない長弓がふるえるほど緊張し、ほとんどまともに演奏できなかった記憶しかありません。
そんな私が、目を見開かされたのが、例のエッセイでした。
そこから敷衍して、
本番は環境や状態がいつもと違うから、当然、いつもと違うことが起こり、それは、ふだん間違えないとこを間違えるというマイナスに転ぶ時もあれば、ふだんいまいちなとこが上手くいったりなど、どっちに転ぶか分からない。
そのような話を、よくレッスンでしたりしていました。
ただの説ではないです。私自身の経験からきたものです。あの南京の経験を経て、ひょんな偶然から「教える」という仕事にかかわるようになり、それが演奏につながることもありました。
少しずつ場数を積み重ねていった私ですが、あるとき、本番でもまったく緊張しなかったのです。しかし、なんども間違え、まったく満足のいく演奏ができませんでした。
一方で、あるチャレンジングな曲がいちばんうまくいったのは、手足が震えるほど緊張したときだったのです。
すべてに使えるアレクサンダーレッスン
そして今年、とある本に出会いました。
この春休みに読了した、『アレクサンダー・テクニックの使い方ー「リアリティ」を読み解く』(芳野香著、誠信書房、2003年)です。
※元ツイで『アレクサンダー・テクニックと使い方ー「リアリティ」を読み解く』としてしまってましたが、これは間違いです。たいへん申し訳ございません!!!
この本のことをアレクサンダー界隈の方に話したところ、芳野さんは翻訳とかもされてるそうで、日本で「アレクサンダーテクニーク」として知られるこのメソッドを「テクニック」としたのは考えあってのことではないか、とどなたかがおっしゃっていました(失念してすみません)。
「翻訳もなさってたのか、へええ」などと感心して帰宅して調べてみたら、ちゃんと自宅にあって、一読もしておりました。にもかかわらず、まったく覚えていなくて、まことにお恥ずかしい限りです(この本も、また読み直していく必要がありますね)。
さて、『アレクサンダー・テクニックの使い方』に戻りますが、いま講師養成コースで、他の方々よりも長い時間をかけて学んでいる私にとって、とても目を見開かされる内容でした。
さきほど、「他の方々よりも長い時間をかけて」と書きましたが、私と同じ時期に学び始めた、いわゆる同級生にあたる方々の多くは、すでにアレクサンダー講師資格を取得し、先生として活躍なさっています。
いぜんはそのことについて、たいへん苦しい思いをしましたが、いまは、私は私のペースで進むしかないと思い直して、他人とではなく、過去の自分と比べることにしました。
それはそうと、本書は音楽に特化した内容ではないものの、演奏に関わる記載もたくさんありました。というか、視点さえかわると、アレクサンダーについてのすべてのレッスンが、音楽と結びつけることができるのです。
これは、いっけん不思議なように見えますが、あたりまえのことです。
歩く・立つの日常の動作も、仕事も、家事も、スポーツも、音楽も、けっきょくは「自分」を使っているのですから、自分の使い方を学ぶことは、そのまま音楽にも関わってくるからです。
間違えないための練習?
そのなかでも、まさに誰がどうみても音楽にどんぴしゃり!という記載が、「よくある質問」という章の中にありました。
その一部を抜粋して旧Twitterに載せたましたが、それを以下に再掲します。
旧Twitterには写真を載せましたが、改めて一文字一文字打ち直すと、内容がより心に入って行くような気がします。
いうまでもなく、私自身が「間違わないように」練習していました。間違えるところを間違えないようにする、それが練習の大半を占めていたような気がします。もちろん、なんでもないところを間違える経験もたくさんしました。だからこそ、この一文に、ハッとしたのです。
では、そうでない練習とはなんでしょうか?
このあたりを、深くほりさげることが必要なようです。
たとえば、こんな問いを立ててみるのもよいでしょう。
初見でパッと見てひけるところは、練習する必要のないものでしょうか?
それは、この曲のなかで不用な部分でしょうか?
初見でひいている今の演奏が、あなたのベストでしょうか?
とはいえ、練習時間は限られています。
現時点での私の仮の答えは、配分時間はすくなくてもいいから、通し練習などをするときに、ふだんはあまり練習しないようなシンプルな部分も含めたすべての箇所を意識的にひく、ということです。
どんな音をどのように出したいか、そのためにわたしの心身をどのように使い、そのためにどのような準備をするか。音楽のはじまりから終わりまで、私が責任を持って、音たちを生じさせ、音たちの終わりを見送る・・・そんな感じでしょうか。なんか、抽象的な表現になってしまいましたが。
で、さきほど「意識的にひく」と書きましたが、実は、アレクサンダーテクニークは、無意識に習慣でできることでも、敢えて意識的にやることを大切にするメソッドです。
たとえば皆さんは、自分が立ったり、歩いたり、椅子に座ったりできるのは当たり前と思っていることでしょう。
だから、わざわざお金を払ってまでレッスンに行って、立ったり、歩いたり、椅子に座ったりすることを学んでいると聞くと、びっくりしたり、あきれたりするかもしれません。
しかし、違うのです。指や手が宙に浮いて楽器を持っているなら別ですが、指は手に、手は腕に、腕は体幹についています。体幹とつながっている箇所が、楽器に触れており、そこが動いて音を出すのです。
同じように、練習が必要なパッセージは、そこだけが宙に浮いて存在しているわけではありません。指や手があなたの一部なように、難しい箇所も曲の一部です。はじまりがあり、いろんな過程をへて、必然的にそこに到達し、さらにそこから、次の箇所へとつながっていきます。
どれも、全体があり、部分があり、それらは一体のものなのです。
※上記の記事は、下の2024年4月22日と3月26日のツイートを再編集したものです。
https://x.com/erhumao/status/1782198950247969231