しばらく二胡をひかなかった私へ

《コンテンツ》

●半年の遅れ
●一週間の経験、半年のブランク
●数年間の逡巡、そして・・・

半年の遅れ

いろんな事情があって、しばらく二胡から離れる方がいらっしゃいます。

それはやむをえない事情かもしれませんし、たのしいイベントかもしれませんが、どちらにせよ、もしかして心のどこかに、しばらく楽器を練習できないというひっかかりが生じる可能性もあります。

昔は特にそうでした。「一日ひかないと自分が気づく、二日ひかないと先生が気づく、三日ひかないと聴き手が気づく」と言われていた時代です。それこそ、一日休むだけでも取り返しがつかないように思っていました。

だから、私が中学校1年の時に、人員調節のため、半年たってからもといたサックスパートからクラリネットパートに移るように先生に言われたときは、もう一生、半年の遅れは取り戻せないだろうと感じていたのです。

しかし、高校生になり、高校に入って初めて楽器を触った仲間がどんどん上達していくのを眺めていると、自分がかつて半年という時間をすごく重大に思いすぎていたかもれない、と感じるようになりました。

それからウン年後、20代後半で中国に留学する機会があったのですが、そこでたまたま二胡に出会いました。

最初はまあ気楽に新しい楽器を楽しんでいたのですが、2年目くらいでしょうか、いちど、先生が中国の小学生の生徒さんを教えるところを見学する機会がありました。まあその子がひく二胡が上手なこと、上手なこと・・・。私は音楽留学ではなかったのですが、それでも我彼の圧倒的な差に、絶望的な気持ちになりました。

また、先生のレッスンは、私に教える時と、中国の生徒さんを教える時ではあまりにも違っていて、「うわ、あんな風に厳しくされてたら二胡やめてたかも・・・」と震えがきました。

その厳しい指導が自分に向けられなかったことにホッとしつつ、それはたぶん、厳しくしても先がないからだろうな、などと心のどこかで思ってしまっていました。

そして、二胡をはじめてしばらくしてから、よく二胡の先生から「せめてあなたが16歳だったら」という意味のことを言われるようになり、はるか昔の部活のことを思い出して、「あの高校からクラリネットを始めた友達はぜんぜん遅くなかったんだなあ」と、改めて振りつつ、あーもうその年には戻れないし、しょうがないなあと、心のどこかで諦めというか、なんか複雑な気持ちになったものでした。

一週間の休み、半年の空白、数年のブランク

その後、留学生を対象に、大学が主宰する夏の新疆旅行の募集がありました。私は留学2年目の最後の年だったので、ここで参加しておこうと思ったのですが、唯一の気がかりが楽器のことでした。

1週間の旅、楽器も持っていこうかなと思っていたのですが、当時の楽器ケースは緑の木箱で移動には適さず、もういいやと、パパッと旅行に行っちゃいました。

しかし、楽器がなくても、途中で下車した駅で買った本『中国名曲音楽故事』(↓)を車内やホテルでちょこちょこ読みつつ、「陽関三畳」の「陽関」をこの目でみたりと、かけがえのない経験ができたのです。

↓買った店のシールが貼ってある。1999年7月2日(おー今日と同じ日付だ!)の疏勒河駅の書店だ。

↓最終ページには、何駅を何時に通過したかといちいちメモした痕跡がある。めんどくさがりなくせに、変なとこでマメな私・・・。

(この旅についてはFacebookを始めたときにしばらく連載?していましたが、旧Twitterの方を優先させてそのうちやめてしまいました。どんどん記憶から消えていっているので、いつか何らかの形で文章にまとめたいなと思っています)

閑話休題。新疆の旅を満喫して、南京に帰ってきた私。寮の部屋に戻り、おそるおそる楽器に触れてみました。

あら、想像よりはだいぶんマシでした。ただ自分で衰えを自覚できなかっただけかもしれないのですが、ちょっと気になっていただけに、けっこう覚えているモノだなあと、意外に感じたのです。

もちろん、旅行にいかずに一週間練習していたら、もっと上手になっていたかもしれません。しかし、南京に残って練習していた場合には得られなかった、かけがえのない貴重な経験ができたのかも、と、思えるようになったのです。

***

その後、翌日か数日後に、留学期間を終えた私は日本に帰国しました。

帰国後も、大学院の休学期間が残っていたため、なんか宙ぶらりんの時期が半年ほどつづきました。その間の私は、まさに試行錯誤・紆余曲折・五里霧中・・・。研究者の道を諦めた自分に一体何ができるのか、焦って迷って、通訳養成学校にちょっとだけ通ってみたり、まったく未知の分野で就活してみたり、ずっと焦燥感にかられていました。

この間、ほとんど二胡に触れることはなかったのです。

そのあと、ひょんなことから日本でも二胡の先生に出会うことができて、レッスンを再開し、やがて中国語講師や二胡講師になる機会に恵まれたのです。

いろんなご縁があって、先生の先生である張韶先生からレッスンを受けるようになり、先生の著書のことを知り、思い立って、先生の著書である『二胡広播教学講座』の翻訳に取り組むことになりました。

この大著は中国語で312ページあり、前半は二胡の歴史から楽器の解説や各技法の解説や練習の心得など、ほぼ文字でびっしり。さらに後半は222曲の譜面を収録しています。

少しずつ少しずつ訳すのにも、知識のなさから時間がかかり、しかも原著はそれまで張韶先生が出版してきた複数の著書を下敷きにしているため、間違いや記載の矛盾が多く(校正箇所はもう数えられなくて、100か200以上はあったと思います)、それらの手直しをしながら知らないことを調べたりしつつ、原著にない図や写真、楽曲・作曲者の解説も加えました。

さらに、自費出版になったため、原稿の版下作りや図版の手直し・作成はぜんぶ自分でやらなければならず、機械オンチの自分がInDesignとPhotoshopというソフトの使い方から学ぶ必要があったのです。

これらのほぼ無謀とも言えるチャレンジの連続で、実に数年単位でろくに二胡に触れることができませんでした。

二胡との出会い直し

出版を終えたあとも、増版・再版などがあり、作業は続きました。

それでも、なんとか時間を作って、二胡レッスンを再開しましたが、自分の衰えをひしひしと感じざるを得ませんでした。

レッスンが終わって帰宅しながら、涙が溢れて止まらなくなったことが何度もありました。長年のブランクですごく下手になってしまった自分は、なんの価値もないように感じました。

その問題については、いまもなお、まだ完璧に解決できていません。技術の遅れはもう時間は巻き戻せず、しょうがないことなので、腹をくくって少しでも取り戻していこう、ヒトと比べずにゆっくりやっていこうと思えるようになってきましたが、それでも、劣等感などの心の問題はいまだにひっかかっています。

ただ、同じようにブランクに悩む生徒さんたちと接していくうちに、みなさんにお伝えする声かけを自分にもするようになりました。

二胡ができなかった時間は、完全に無駄なのでしょうか?

確かに、テクニック的な進歩という点では、習い始めるのは遅いより早いほうが、ブランクがあるよりはない方がいいかなと思います。

けど、二胡を始める前や、ブランクの間に経験したことも、いまのあなたを作っている大切な要素です。それは、どんな体験・経験であれ、きっとなんらかの形で、あなたの糧になっているだろうと思うのです。

だから、習うのが遅かったからとか、ブランクがあっていろいろ忘れちゃったとかで、自分を責めたり後悔したりしないでください。きっと、その時間が、あなたにとって必要だったかもしれないし、あなたにとって最適なタイミングだったのだと受け止めてみるのはどうでしょうか。

そして、新たに手に取った二胡を、もう一度、未知との遭遇だと思って、眺めてみてください。

初めて習う方は、やっと出会えたね、これからよろしくね、と二胡に挨拶してみましょう。

久しぶりの方は、まるで初めて見る楽器みたいに、改めてしげしげと二胡を眺めてみてください。こんな楽器をひいてたんだね。久しぶり、と二胡に挨拶してください。そして、むかし好きだった曲をひいてみましょう。

たくさんつっかえても、ほとんど忘れていても大丈夫です。これからの新しいあなたが、また二胡や二胡の曲たちと、新しい出会いをしていきます。そのとき、いぜんとはまったく異なる感じを味わうかもしれません。いぜん分からなかったニュアンスが、なんとなく分かるようになるかもしれません。

(私自身が、じっさい、そのような経験をしました。回り道があったからこそ、いまの私があるのだと、そう自分に言い聞かせて、なんとか今日までたどり着いたのです)

どちらの方々も、これからの二胡との時間を、楽しんでみてくださいね!

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