《コンテンツ》
●まず自由があり
●それから工夫があり
●最後に選択がある
まず自由があり
まず思うのです。
ヒトは、各人の置かれた状況や事情を別にすると、だれにでも二胡を練習しない自由があります。毎日練習する自由があります。月に一度だけ練習する自由があります。
ヒトは、各人の置かれた状況や事情を別にすると、個々人に与えられた24時間を好きなように配分する自由があります。
二胡は義務教育ではないので、続ける自由もやめる自由もあります。二胡以外のものに夢中になる自由もあります。
いろんなことをやって、もし時間が余ったらちょこっとだけ二胡をひく自由もあります。二胡のための時間をわざわざ作らない自由もあります。
しかし、なんども「各個人の置かれた状況や事情を別にすると」と断っているように、個人が自由にしたくてもそうできない状況や事情があります。
したくてもできない、それには家族など他者のためにによって時間を割かなければいけないということもあるでしょう。
自分自身の仕事や暮らし、居住環境などの外的要因もあるでしょう。
あきっぽい、忘れっぽい、めんどくさい、などの個人の資質もあるでしょう。
(その前に、初心者の方にはまず「練習したほうがいいですよ」という情報を提供したほうがよいこともあります。まず二胡と友達になるには一定の時間が必要。友達になれば多少はご無沙汰しても大丈夫だけど、そもそも接する回数がほとんどないヒトとは友達どころか顔見知りになる機会もないでしょうし・・。)
それから工夫があり
話を戻しますと、「各個人の置かれた状況や事情によって、練習するという選択がしにくいときに、どう工夫すればいいかいろいろなアドバイスをお伝えすることもあります(自分の経験が元になっていることが多いです)。
「忘れちゃうのよね」、という場合なら、どうやって思い出すかを一緒に考えます。自然災害の危険を度外視して、そのへんに立てておくというのも一案です。楽器をみたらイヤでも思い出すでしょうし。
また、楽器ケースがしまいこんであったり、ケースから楽器を出すことそのものがめんどくさいと感じて、後回しにしているうちに「忘れる」というケースもあるので、そのめんどくささを少し軽減するのにも役立ちます。
譜面台を立てるのが面倒、あるいは、家にないという場合は、書見台を使ってもよいでしょう。テキストによっては、ノートパソコンに立てかけることもできます(私だけ?)。なんか場所を決めて、もうそこに譜面をセットしておきましょう。楽器も出しっぱなし、譜面も出しっぱなし。危険もありますが、そこは選択です。
楽器そのものを出しておかなくても、なにか書いて(描いて)貼ったりするのも良いでしょう。タイマーをつかうのも良いでしょう。なにか別の、日常の習慣と結びつけて、それをやる前(or やった後)に二胡に触れるという習慣をつけるのも一方法です。
時間がない、という場合は、まず●分したいとか●時間したいとか、いきなり理想から入るのではなく、現状把握から始めた方がよいかと思います。
例えば、月2回のレッスンの時しか二胡にふれてなくて、家でまったく練習しないという場合。
いま、月2回二胡に触っているという方が、いきなり「毎日●分練習したい!」といってもなかなか難しいです(もちろん、それにチャレンジしてみたらなんかできた、という方もいらっしゃるでしょうが)
とりあえず、月2回、1時間のレッスンにくることで、ひと月に2時間は練習できているというところからスタートです。
それを、もしもう少し増やしたいなあと思うなら、どうしましょう?
「あっ今日はレッスンだった!」と慌ててその日の午前中に二胡に触るようにすると、これまでの月2回が月4回になります。
レッスンがない週に、レッスンと同じ曜日と時間帯のときにちょっとだけ二胡に触るというのもひとつのアイデアでしょう。
ゼロベースから機会を増やすという方向性もあれば、「練習」ということそのもののハードルをダダ下げるという方向性もあります。
たとえば、二胡に「触るだけ」「見るだけ」「ケースの蓋をあけるだけ」でOK!とするのです。
あるいは、楽器を持たない練習もたくさんあります。心の中でメロディを思い出したり、伴奏があればそれを聞きながら歌ったり、指を動かしたり、誰かの演奏を聴いてみたり、楽曲解説を調べたり・・・・ほんとうにたくさん、いくらでもあるんですよ。
最後に選択がある
いろいろ思いついたことを書いてみましたけど、最も大事なことは、「練習したい、けどなかなかままならない」という方に対して、こういう方法とかこういう考えすればいいかも、というアイディアをただ思いつくままに出してみただけであって、「~しなければ」という意味ではないということです。
あくまでも情報提供であって、それらを選択するのは、あくまでも自分自身です。
もっというと、なんのためにその情報を収集し、選択するのかというところで、そこが「練習したいな」という望みからではなく、いつのまにか「練習しなくてはいけないのにできてない」と、「~せねば」にすり替わっていることがしばしばあります。
やっかいなことに、最初が「望み」から始まったことですら、時が経つにつれ、次第に義務感に変換していることもありえるのです。
だから、なにかに取り組むときにはそのつど、「わたしはなんのためにそれをやることを選択しているのか」という根本のところに立ち返って、自分自身に問い直して、確認する必要があるなあと思ったのでした。それが、「最後には選択がある」とした理由です。
ノウハウやハウツーを追い求める前に、まずは自分の「望み」を確認しましょうね。