《コンテンツ》
●戦争に翻弄された劉天華
●偏見にさらされた二胡
●劉天華の演奏会
戦争に翻弄された劉天華
劉天華の音楽的な功績を見ると、その墓碑に刻まれた「音楽大師」の名の通り素晴らしいものだけど、彼の生きた時代と重ね合わせると本当に不憫でなりません。
劉天華が生まれる前年には日清戦争、亡くなる年には上海事変が勃発しました。
ふるさと江陰から常州に出てトランペットを吹いていた中学生の劉天華は、辛亥革命で学校が休学になり帰郷しました。
のち、兄(劉半農。この方も有名人です)にくっついて当時の大都会・上海に出て、ピアノやバイオリンやトランペットなどの西洋音楽を学ぶチャンスに恵まれました。十代後半の劉天華は、きっと目をキラキラ輝かせながら、一生懸命楽器を練習し、音楽学習にいそしんだことでしょう。
しかし、そんなステキな日々もたった2年で終わりました。所属団体に解散命令が出て、帰郷せざるを得なくなったのです。
それでも小中学校の音楽の先生から再スタートし、頑張って頑張って、やっと念願の最高学府の中で国楽(中国音楽)を学べるような環境作りを成し遂げたのに、北洋軍閥下の教育行政の無理解によりその職のほとんどを失った不遇な時期もあったのでした(1927年)。
彼が熱心に収集した(そしてその調査の過程で猩紅熱に感染して亡くなったのだけど)貴重な伝統音楽や民間音楽の資料も、その後の戦争の激化によってほとんど散逸してしまったのです。
偏見にさらされた二胡
彼に立ち塞がったのは戦時下の国際・国内情勢だけではありません。
実は、二胡が中国を代表する楽器として華やかにスポットライトをあびるようになったのは、二胡の歴史の中ではほんの一瞬にしかすぎません。実に長い間、「二胡などはしょせん物乞いの楽器」という人々の根深い偏見にも晒されていました。
劉天華の娘・劉育和は、『劉天華全集』のなかで、劉天華についてのいくつかのエピソードを紹介しています。その一つに、劉天華が子どもの頃、市場でおもちゃの紙筒二胡を買って帰ったところ、父が激怒し、取り上げて地面に叩きつけて踏みつけにしたというものがあります。
私より上の世代の方々は、昭和に「門付け」があったことをご存じかもしれません。音楽などの芸能は、高尚な芸術であるばかりでなく、時には、土地を失ったり不作に見舞われたりして生活できなくなった農民や、障害などの理由で労働ができない人々、また事情により親に養ってもらえなくなった子どもなどが生きる手段でもありました。特に、目の見えない方々にとって、音楽は、聴覚の鋭さという特性を生かすことのできるよい手段でしたが、その一方で、瞽女さんのように差別に苦しむこともありました。
中国でも同じです。阿炳や孫文明も盲目の音楽家でした。もちろん、晴眼者の民間音楽家もいましたが、障害の有無にかかわらず、中国の民間音楽家が社会的にも認められるようになったのは、新中国になった1950年代になってからのことだったのです。
なので、劉天華が生きていた時代(1895~1932)は、二胡を演奏し、二胡を教えるという自分の仕事を、身内である妻にさえなかなか理解してもらえませんでした。妻がやっと応援してくれるようになっても、世間の二胡に対する蔑視はそのままだったのです。
劉天華の演奏会
しかし、劉天華は粘り強く、少しずつ、高等教育の門をこじあけていきます。
まずは、先にちらっと述べたのですが、最高学府で中国音楽を学ぶ環境を整えました。
具体的には、北京大学に音楽伝習所という音楽教育を担う機関が附設されたのです。そもそも、大学という最高学府が音楽に門戸を開いたのは初めてのことでした。ここでの教育は、ほぼ西洋楽器が中心だったのですが、劉天華が招聘されることで、国楽(中国音楽)もかろうじてその一角を占めることができたのです。劉天華は中国音楽方面を一手にひきうけた(『楽人の都・上海』62p)ばかりか、女子高等師範学校音楽系(~系は学部などに相当)や、北京芸術専門学校(のち北平大学芸術学院に改称)音楽系などでも教鞭を執ったのでした。
当時の二胡の立場を考えると、これだけでもかなり画期的なことですが、劉天華はさらに1930年、当時の一流ホテル・北京飯店で「劉天華二胡・琵琶・古琴独奏音楽会」を開催することを決意しました。政府要人も宿泊するこのホテルでは、よく西洋音楽のコンサートが開かれていましたが、民族音楽というのは初めてだったのです。ホテルの従業員の中には「二胡なんかがここで演奏するなんて」と眉をひそめたものもいたそうですが、そのような偏見をはねのけて、この演奏会は好評を博したのです!
しかも、コンサートのお客さんの中にはレコード会社・高亭公司(オデオンレコード)の関係者もいて、これをきっかけに、翌1931年に劉天華の二胡・琵琶の演奏のレコーディングが実現しました。
下は、『刘天华记忆与研究集成』59ページ掲載の劉天華のレコードの写真です。
いま私たちも、このレコードを通じて劉天華本人の演奏を聴くことができます。
↓は中国の動画サイトですが、ここから視聴できますか・・・・?
最初のアナウンスは「(高亭公司)懇請劉天華教授南胡独奏,(曲名)」といっています。
「懇請」は最初は聞き取れなかったのですが、あとで教えてもらえました。
劉天華「教授」と言っているのは、彼が当時、で教えていたからでしょう。
「南胡」は二胡のことです。
劉天華の音楽的な功績を見ると、その墓碑に刻まれた「音楽大師」の名の通り素晴らしいものだけど、彼の生きた時代と重ね合わせると本当に不憫でならない。劉天華が生まれる前年には日清戦争、亡くなる年には上海事変が起こっている。ふるさと江陰から(続く)|ウェブベルマーク https://t.co/6wqvW8AdhC
— 井上幸紀 (@erhumao) November 26, 2022
(続き)北平大学芸術学院音楽系が1929年に設立し劉天華が講師として招聘されると2人は北京に趣き劉天華のもとで学ぶようになった。なんでまた劉天華の話をしたかというと、その2年後になる↓のレコーディングのアナウンスの◯◯が「懇請」だと分かったからだ。どうもありがとうございました!! https://t.co/tacryyEJ5R
— 井上幸紀 (@erhumao) November 28, 2022
(続き)重病で死に瀕していた父の快癒を願う「冲喜」だったという。しかしその甲斐なく父は病死し、劉天華はのちに正式に結婚する。彼が子どもの頃、この父に紙筒二胡を取り上げられ踏みつけられたというエピソードがあったことを先月ツイートしたが(↓)、実は新婚当初は妻からも二胡を嫌がられて(続く) https://t.co/FWpQDKYgQO
— 井上幸紀 (@erhumao) November 24, 2021