劉北茂と小花鼓①

《コンテンツ》

●劉天華と劉北茂
●劉北茂の決意
●重慶の劉北茂

劉天華と劉北茂

「小花鼓」の作曲者として、みなさんも劉北茂(1903~1981)の名前をご存じかも知れません。彼は、劉天華の実弟で、三男でした。次男が劉天華、長男は劉復(劉半農)といいます。

劉北茂は、ロンドン大・パリ大に留学経験がある知識人の長兄と、西洋音楽と民族音楽どちらにも造形が深い次兄のどちらの影響も受けました。

常州中学校の生徒だったときには、同校の音楽教師であった劉天華が指導した軍楽隊と糸竹隊のどちらにも所属していました。写真上は軍楽隊の写真で、左から10人目が劉天華、右から8人目が劉北茂です。なんの楽器を持っているのかよく見えないのが残念です。写真の糸竹隊は、右から10人目が劉天華、右から3人目が劉北茂です。北茂は二胡を持っていますね。

この写真に出会ったのは『劉天華全集』でしたが、その中に劉天華だけでなく劉北茂も映っていることを知ったのは、『劉北茂紀念文集』に載っていた同じ写真のキャプションを見たからでした。

しかし、北茂は音楽に親しみつつも、より西洋文学に関心を抱いたようです。大学では英文学を専攻し、やがて北京大学でイギリス文学を教えるようになります。それでも、暇を見つけては兄のもとに訪れ、二胡や琵琶のレッスンを欠かしませんでした。

劉北茂の決意

その劉北茂が29歳の時、劉天華が道半ばで亡くなってしまったのです。彼は英文学を教えながらも、ひそかに「兄がやり残したことを全うしなければ」という使命感を感じるようになったようです。

そんな中、1935年に劉天華の弟子達が劉天華の作品を演奏するコンサートが開かれました。弟子達に混じって、彼も「病中吟」を演奏し、好評を得ました。なにより、ずっと兄からレッスンを受けていたのです。きっと、弟子達にひけをとらないくらいのすばらしい演奏をしたのでしょう。

しかし、数年後の1937年、盧溝橋事件が起こり、日中戦争が勃発します。劉北茂は北京を離れ、いろいろあって、1940年に西北聯合大学(現在の西北大学)外文系の副教授となりました。主専攻はシェークスピアだったそうですが、一方で、課外活動の中で二胡演奏や作曲、指導等も行っていたようです。

同年に二胡曲を3曲作曲しました。そのうちの一曲が「漂泊者之歌」で、楽曲の一部が譜例として『張韶老師の二胡講座:上巻』39ページに載っています。また、たびたび二胡演奏会も開いていたようでした。彼の中で、すこしずつ民族音楽の占める割合が高まっていたようです。

そんな中、1941年に彼の長男が12歳になる前に亡くなりました。とても賢い子どもだったそうで、北茂の悲しみもひとしおでした。このことが影響したのでしょうか、翌年、すでに39歳になっていた彼は、とうとう安定した今の職を辞し、音楽の道に進む決心をしたのです。

重慶の劉北茂

職を辞した彼は、西安から重慶に向かいました。当時、すでに首都南京は陥落し、首都機能が移った重慶に、青木関国立音楽大学が設立されていたのです(1940年創建)。ここでは、劉天華の弟子の儲師竹(のち阿炳の二泉映月の録音のきっかけを作る)や陳振鐸(「田園春色」の作曲者)などが民族音楽を指導していました。その講師陣として、劉北茂も新たに加わったのです。

戦火の中、一家で重慶に向かう道のりは過酷なものでした。青木関に到着しても、そこは大学とは名ばかりの、掘っ立て小屋のようなところでした(下図は『呉伯超的音楽生涯』より)。しかし、教授陣や学生陣の熱心さは設備の粗末さを上回っていました。また、青木関には幼年班もあったので、子どもたちもあちこち走り回り、先生一家の子どもも交ざって、まるで大きな家族のようなコミュ二ティができていたのではないかと想像します。

劉北茂の「小花鼓」(1943年)はこの地で作曲されました。

ついでにいうと、同じく有名な陳振鐸の「田園春色」(1942年)も、やはりこの光景の中で作曲されたものです。

劉天華の実弟の劉北茂。劉天華の弟子の陳振鐸。時には劉天華の初めての弟子の儲師竹や、劉天華から琵琶を学んだ曹安和(女性)もまざって、劉天華にまつわるいろんな思い出話に花を咲かせたのではないか、と勝手に想像してしまいます。

さて、「小花鼓」の作曲の際には、北茂一家の心温まるエピソードがあります。

これについては、また次回に紹介したいと思います。

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