選択の自由-1

●『七つの習慣』における「選択の自由」

●『テクニークの進化』における「選択の自由」

●二胡における「選択の自由」

自分は「こうひきたい」という新しい望みがあるのに、気づいたら昔のひき方に戻っている。

昔の習慣がなかなか抜けない。漫然と演奏してしまう。同じところを何遍も間違えてしまう。

そんなときに必要なのは、「選択の自由」です。

その大前提として、まず選択肢があること。

そしてそれを、自分の望みで選び取っていけるようになること。

今回はそんなお話です。

『七つの習慣』における「選択の自由」

「選択の自由」ーー私が初めてその言葉に接したのは、いわゆる自己啓発書の『七つの習慣』という本でした。

私の記憶では、これを熱心に読んでいたのは5年ほど前だったと思います。

著者のコビー氏は、「選択の自由」を、「決定論」と対置する形で紹介しています。

「決定論」とは、コビー氏によるとフロイド学説に基づくもので、幼い頃の体験が人格と性格を形成し、それによって今後の人生が決まってしまうという考え方です。

この考え方の特徴は、「ヒトは刺激に対して直接反応する」というものです。

Aという刺激に対して、Bという反応しかしない。

矢印はつねに決まったルートをたどります。

 

具体的にいうと、一つの出来事を、あるヒトはいつも楽観的に捉えるが、あるヒトはいつも悲観的に受け取ってしまう。それは幼い頃の人格形成のせいだから、しょうが無いということでしょうか。

コビーさんは、「決定論」にその論に染まっていたビクター・フランクルという心理学者が、ユダヤ人であるためにナチスの収容所に送られるというすさまじい体験の中で得た「発見」を紹介します。

それは、人間は刺激と反応の間に選択の自由を持っている、その選択の自由の中にこそ、人間の人間たる四つの独特の性質(自覚・想像力・良心・自由意志)がある、ということです(キング・ベアー出版の1997年版、84p)

このくだりを読んで、私はなるほど、と思いました。

例えばいつもなら不愉快に思うような出来事があっても、ほんとうに不愉快になるかどうかは自分で選択できるんだ、と。

この本の挙げた「習慣」のみならず、この一つのことでも私はいつも実行できたとはとてもいえません。しかし、考え方の一つとして、とても興味深く、印象に残りました。

「テクニークの進化」における「選択の自由」

それから数年後、このコビーさんの「選択の自由」を、再び思い出すきっかけがありました。

私は、アレクサンダーテクニーク認定講師の資格を取ろうと、2016年にBODYCHANCEに入学しました。そして同年秋に「テクニークの進化(Evolution of a Technique )」というアレクサンダー自身が書いた文献の読書コースを受講します。

この本は、俳優・朗誦家であるアレクサンダーさんが、声のかすれ等に悩み、医者にかかってもなおらず、自分自身を徹底的に観察することで考察を深めて、原因を突き止めていく過程が事細かに書かれています。

執念深いとしかいいようがない執念と、わずかな変化も見逃さない鋭い観察眼はほんとうに恐るべきものなのですが、そこに「選択の自由」について書いてあったのです。

具体的には、アレクサンダーさんは、声を出す時に、頭を後ろへ下へと引いてしまうなど特定の反応をすることに気づきました。

「声を出す」という刺激に、「頭を後ろへ下へと引く」という反応をしていたのです。

これは長年にわたって習慣になってしまっていて、他の選択肢が選べない。

という状態です。それをアレクサンダーさんは「本能的な反応」と呼びました。

では、そこから脱却するためにどうすればいいか。

アレクサンダーさんは、そこから脱却するためにつかったのが「抑制」です。

A→Bの反応は、「声を出そうとする」ときにすでに起こっていました。

そこで、声を出そうとするとき(A)、まずは自分の反応を抑えます(抑制)。

そして、

声を出そうとして(A)→抑制→なにもしない(B)。

声を出そうとして(A)→抑制→違うことをする(C)

声を出そうとして(A)→抑制→声を出す(D)

という選択肢を選べるようにしました。

↑上記の記述に関しては、この図式のほか、もっと大切な概念であるプライマリーコントロールディレクションなど、私自身がまだちゃんと腑に落ちていない様々なことが関わってくるのですが、現時点で修行中の自分が理解できる限りのことを書いています。だから、正確な解釈ではないことはご承知ください。

二胡における「選択の自由」

コビーさんは、「人間の人間たる四つの独特の性質」(自覚・想像力・良心・自由意志)を用いるとしました。

一方、アレクサンダーさんは「抑制」を用いています。

どちらにしろ、選択するためには、「選択肢があること/その選択肢を自分自身で選べること」が大前提になると思います。

で、私がなぜこのブログを書こうと思ったかというと・・・。

かなり前のことになりますが、グループレッスンでビブラートのやり方について尋ねられたので、ビブラートのいくつかの種類を示したあと、いちばん普遍的に使われるビブラートを使って、速さなどを変えて何回か実際に演奏してみて、「このなかでどのビブラートの感じが好きですか?」と質問して、選んでもらったことがありました。

そしたら、あとで、「自分で選んで決めることが衝撃的だった」との感想をいただき、その感想に、私自身がすごく衝撃を受けたのです。

というのは、BODYCHANCEで何年も学んでいくうち、「自分の望み」というのを大切にするレッスンにだいぶん自分がなじんできたというのがあります。また、その考えを、少しずつレッスンでも実行に移しています(とはいえ、まだまだ試行錯誤の最中なのですが・・・)。

でもやはり、いまでは、どうひくかということも先生が決め、自分が出来てるかどうかを先生がジャッジし、というのが主流なんだなあということを痛感しました。

もちろん、地方における独特の奏法とか処理とか、私自身いろいろ勉強して、それをお伝えしていくということもあります。でも、曲によっては、もっと自由にひいていいというのもあるでしょう。とにかく、あくまでも生徒さんが自分の「望み」によって主体的に学ぶことを自らが選択し、私はそれを全力でサポートするーーそういう立場でやっていきたいと思っているんです。

しかし、中には「とにかく言うとおりにしなさい」型の先生の方が、手っ取り早いし、時間の節約にもなるし、生徒さんも選択肢を示されて戸惑うことなくていいのだろうか・・・という迷いや疑問も自分の中に生じています。なにより、私自身が、先生のジャッジを仰ぐ形で練習してきたことが多かったというのもあります。

そんなとき、私が思い出すエピソードがあります。

それは『張韶老師の二胡講座』の翻訳のため、年に数回ほど北京の張韶先生のところに通っていたときの話です。

大著のためただでさえ膨大な作業量のうえ、先生もご高齢のため記憶にあやふやなところがあったり、資料が出てこなかったり、私がうっかりしていたり、先生の話がそれたりと、ほんとうにてんやわんやの数年間だったのですが、その先生の「余談」には、先生自身の思い出話などもあり、時には作業を忘れて聞き入ったことも多々ありました。

その中の一つに、「月夜」のエピソードがあります。なんかのコンクールでなんとかというヒトがひいた「月夜」の快板の部分がいちばん速かった、あんな速いの聞いたことがない、との話になり、それから、いろんなヒトのいろんな弾き方の「月夜」がある、との話になり、最終的に先生は、こうおっしゃったのです。

「いちばんいいのは、いくつかのパターンの演奏を一つのカセットテープにまとめて、それを生徒さんに聞かせて、本人に自分が好きなのを選んでもらえばいい。」

このことばに、当時の私はびっくりしました。

実際には、カセットテープでその処理を行なうのはけっこう難しく、それができてもテープの複製は一層難しく、そもそも音源の入手から大変だったこともあり、なかなか実行はできなかったそうです。

でも、張韶先生は「月夜」を作曲した劉天華の孫弟子として、劉天華の残した10曲の二胡の楽曲を、深く深く研究していらっしゃいました。そんな先生が、いわゆる自分の研究成果を示すことより、生徒さんに選択してもらうことを重視するのか・・・。

もちろん、すべての楽曲をそのように教えたい、と先生がおっしゃったわけではありません。ただ、いまでも印象に残っていることばでした。

コビーさんの本。

アレクサンダーさんの文献。

BODYCHANCEでのレッスン。そして

自分自身の教えるという体験。

さらに、張韶先生のことば。

それらのことが、「選択の自由」というキーワードを通じて、一つに結びついたのでした。

たぶん、これからも私は従来のスタイルと、いま試行錯誤している新しいやり方の間で、とまどい続けると思います。

でも、すでに述べたように「あくまでも生徒さんが自分の「望み」によって主体的に学び、私はそれを全力でサポートする」という自分の「望み」は、大切にしていきたいです。

では、最初に述べたいくつかのことについて。

・自分は「こうひきたい」という新しい望みがあるのに、気づいたら昔のひき方に戻っている。

・昔の習慣がなかなか抜けない。

・漫然と演奏してしまう。

・同じところを何遍も間違えてしまう。

そんなときに、選択肢があって、それを、自分の望みで選び取っていけるようになるためにはどうすればいいか。

次回は、それについていま実践していることを、少し具体的に記してみたいと思います。

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上にいるときもある。

下にいるときもある。

一緒に上にいるときもある。

一緒に下にいるときもある。

どうあるかは、選択できる。

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