劉北茂と小花鼓②

《コンテンツ》

●勇気づける曲を
●小花鼓と鳳陽花鼓
●受け継がれた魂

勇気づける曲を

前回の「劉北茂と小花鼓①」において、1943年に、亡兄・劉天華の意志を継ぐべく、実弟の劉北茂が英文学の副教授の職を辞して重慶の青木関国立音楽学院に向かったこと、そこで「小花鼓」を作曲したことをお伝えしました。

このときのエピソードを、『劉北茂紀念文集』268頁や『華楽大典・楽曲篇(上)』349pに記載されている文章をベースにご紹介します。

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重慶に渡る前年の1942年に、かわいがっていた長男・育亮が十二歳で亡くなり、悲嘆に暮れた劉北茂は、追悼曲「哭子」を作曲しましたが、近所に住む、長らく病の床にいる若者から「あなたがひく曲が聞こえてくると、悲しみのあまり死にたくなる」と言われたそうです。

そのことばを聞いた北茂はぶるぶる震え、妻に「自分の曲は人の命を損なうようなものだったのか」と吐露し、今後は生命力を削ぐような曲は一切作らず、人を勇気づけるような作品を作ろうと固く誓ったということでした。

いま調べてみましたが、『劉北茂紀念文集』にも『劉北茂二胡曲集』にもこの曲の曲名や譜面は見つけることができませんでした。きっと、封印してしまったのでしょうね。

そういえば、劉北茂の「小花鼓」は、激しい日中戦争のさなかの作品とは思えない明るさを備えています。一方、兄の劉天華は「良宵」や「光明行」のような明るい曲もありますが、「病中吟」「苦悶之謳」や「悲歌」、そして「憂心曲(独弦操の別名)」など、悲痛な憂国の曲(その中には劉天華個人の不遇さを反映した面もありますが)もあります。

私は劉天華の曲は明るいものも暗い曲もみな好きです。なんかうまく言えないのですが、曲によっては現代曲のような分からなさというか、いったいどこからこんなメロディやフレーズが湧いてきたのだろうという思いがあります。

一方、弟・北茂の「小花鼓」は、「このメロディは昔からありました」と言われてもウッカリ信じてしまうような、単純明快さがあるような気がします。また、劉天華の楽曲は中級から上級の高レベルですが、「小花鼓」はだいたい3級のレベルです。そういうことから、劉天華と比べてちょっと通俗的ではないか、とすら私は感じていました。

しかし、劉北茂のこのエピソードを読んで、そんな自分の浅はかな印象が恥ずかしくなりました。

それは、首都南京陥落後の危機的状況の中で生み出された、たとえシンプルでも、新たに迎える年をことほぎ、希望を持ち続けるような光に溢れた作品だったのです。

小花鼓と鳳陽花鼓

さて、みなさんは「鳳陽花鼓」という民謡をご存じでしょうか?

実は、この民謡にはいくつかのパターンのメロディがあり、私が知っているものは2つ。

ひとつは、「左手鑼、右手鼓、手拿著鑼鼓来唱歌」という歌い出しのもので(譜面はこちら)、このメロディは張韶先生によって「花鼓調」という二胡曲にアレンジされました。

もうひとつは、「説鳳陽、道鳳陽、鳳陽本是好地方」という歌い出しのもので、おそらく、二胡を習っている多くの方は、この曲をひいたことがあるのではないでしょうか(譜面はこちら)。

↓の動画はこの2つがあわさったもので、最初がこの「説鳳陽~」から始まって、後半の1:57~から「左手鑼~」になっている。

もしこの鳳陽花鼓そのものに興味がある方は、こちらのブログもご覧下さい。

「説鳳陽~」の鳳陽花鼓】【「左手鑼~」の鳳陽花鼓

さて、話を戻すと、「説鳳陽~」の方の「鳳陽花鼓」と、「小花鼓」とは、実はちょっとした関係があるのです。

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「あれは1943年の春節の時期・・・」と息子・劉育輝は回想します。調べてみると、この年の春節(旧正月)は2月5日だったので、そのあたりのできごとでしょう。戦時下の窮乏生活を強いられていた劉北茂一家も、新年を迎え、いつもより贅沢な食事(ジャガイモをつぶして卵を入れて揚げたもの)を食べてテンションがあがった子どもたちは、空のクッキー缶を太鼓代わりに、「鳳陽花鼓」を歌います。

この曲の最後は、天災によって生活が窮乏した人民が、「大戸人家売騾馬、小戸人家売児郎、奴家没有児郎売、身背花鼓走四方」、つまり、金持ちはラバを売り、貧乏人は子どもを売り、自分は売る子どもも無いので、花鼓を背負って各地を流浪する、という悲しい歌詞になっています。

それを、子どもたちは「奴家没有児郎売、奴家只好売爸媽」(売る子どももないので、お父さんお母さんを売っちゃった)と歌詞を変えて歌って、劉北茂はそれを聞いて大笑い。

替え歌でふざけるなんて、どの時代のどの国の子どももやるんだな、とちょっと微笑ましくなってしまいますね。同時に、そうやって子どもたちがのびのび?とふざけることができる、一家の仲の良さも伝わってくるようです。

興が乗った子どもたちは、ほかにもいろんな歌を替え歌にしてどんどん歌って楽しんでいます。それを聞いていた北茂の表情が、ふと、変化しました。彼の中にひらめきが生まれたのです。そして急に立ち上がって走って行って、たばこの巻紙を2枚ひきちぎって戻ってくると、そこに猛烈な勢いで紙に何かを書き始めました。

ほどなく、「一曲できたぞ!」と北茂。「うそ!」と妻。「信じないなら、いまからひいてやろう」と二胡で奏でた曲、それが「小花鼓」だったのです。

受け継がれた魂

この回想を執筆した劉育輝について、『華楽大典・楽曲篇』には文末に「劉北茂長子、英語教師、副教授」と紹介していますが、すでに紹介したように長子・育亮は幼くして亡くなっているので、次男か三男の間違いではないかと思うのです。事実、『劉北茂紀念文集』の方は「劉北茂之子、従事英語教学」と書いています。

また、育輝の回想には、上で紹介した「小花鼓」のエピソードのほか、周囲の反対を押し切って、孤児院の目の見えない生徒を引き受けて音大に合格させた話を紹介しています。

目が見えない方が音楽をやるという障害による困難が理由なだけでなく、当時の中国では、悲しいことに、目が見えないというだけで差別の対象にされていました。あの二泉映月の作曲者・華彥鈞も「瞎子阿炳」と呼ばれていますが、「瞎子」は普通の仕事につけず、時には物乞いなどをせざるをえなかった、目の見えない方に対しての蔑称でもあったのです。

なので、そういう子を引き受けるのは、音楽学院のメンツにかかわる、という意味で反対した人も少なくなかったのです。

しかし、北茂はそんな声に負けず、自分の意志を貫きました。

それは、貧しい弟子に医療費を渡したり、民間芸人に敬意を払っただけでなく彼らを師と仰ぎ、民間芸人の技芸(単弦拉戯)を習得してその成果を楽曲「空山鳥語」に昇華させた劉天華の人となりを彷彿とさせます。

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また、劉北茂の曲は、私が持っているテキストでは「小花鼓」しか載っていませんが、『張韶老師の二胡講座』を翻訳していたときに、劉北茂についての文章があり、それを読んで初めて、彼がたくさんの作品を残していることを知りました。

この本の翻訳のためにいろいろ資料を買い集めましたが、うち、劉育熙編『劉北茂二胡曲集』には、独奏曲36曲、小品12曲、子どもむけの練習曲・楽曲29曲などが収録されています。

子どもむけのものは、1曲を除き、1959年から1964年という時期に作曲しており、もしかしたらこの時期に子どもたちに二胡を教えていたのかもしれません。

これら文集・曲集の編者、劉育熙は、劉北茂のもう一人の息子です。さきほど、小花鼓のエピソードを語っていた息子・育輝は英語の先生になりましたが、育熙は有名なバイオリニストになりました。

(↓は『劉北茂記念文集』に掲載されている劉北茂一家の写真。キャプションによると、後列右が育輝、同左が育熙だそうです)

彼は、父の二胡独奏曲の1つ「緬懷」をアレンジして、「哀思」というバイオリン曲にしました。

また、叔父である劉天華のいくつかの曲も、バイオリンで演奏しています。

↓は「良宵」と「悲歌」です。

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