進化の中で考える

●わかりにくい?アレクサンダー

●進化の中で考える

●赤ちゃんの成長の中で考える

わかりにくい?アレクサンダー

アレクサンダーは何でも使える。

けど、「何でも」と言われると、逆に混乱してしまう。

わかりにくいのってこのせいでは??

いぜん、ちょっと身内にアレクサンダー・テクニークのことを話したときに、上記のような反応をされて、考え込んだことがありました。

アレクサンダーのどういう面をどういうふうに説明しようか、時と場合によっていろいろなことを考えますが、今回は、「頭――脊椎の関係をまず見る」というアレクサンダーの特徴のひとつを、比較的私の好きな?説明の仕方でひもといてみます。

進化の中で考える

私たちは脊椎動物の一種です。

一般的に、脊椎動物は四肢を使っていろいろな活動をします。

しかし、もとはといえば、脊椎動物のおおもとは「おさかな」です。

魚類は手足がなく、体幹?を巧みに動かして進んでいきます。

そのあとに、両生類が登場します。

両生類は足がありますが、基本的に身体をくねらせて進んでいきます。次の爬虫類も、進み方は同じ感じです(両生類と爬虫類の違いについては、こちらを参照してください)。

ただ、哺乳類になると、足が下にスッと伸びていて、機動力が格段に高まります。

ここで、爬虫類と哺乳類の途中の生き物をネットで見つけました!
前足は横について、後ろ足は真下についています。面白いですね。

https://www.sankei.com/article/20150916-6YHDJV4Q7BOQHFY4IXT2YAP6UY/

そういう進化を経てヒトはやがて立ち上がって二足歩行に移るのですが、基本的に体幹が主、四肢が従であることは間違いありません。

いまや、激しく身体をくねらせなくても進むことはできますが、動きの根幹はやはり、軸(体幹)なのです。

さて、話を戻しますと、陸に上がった脊椎動物は基本的にず~~~っと四足歩行をしていました。

四足歩行の場合、動きの先頭に来るのは頭部です。だから、すべての感覚器は頭部についていて、外界の情報をまっさきにキャッチします(感覚のうち、触覚については頭以外の部分にもありますが・・・)。

そして、動きをリードするのも頭です。

頭を右に振ると、右に行きます。左に振ると、左に行きます。

まとめると、

動きは頭――脊椎の動きが基本にあって、

そして実際頭が先頭にあって、身体は頭の向かう方向についてくる

ということがいえるのではないでしょうか。ニンゲンも例外ではないのです。

赤ちゃんの成長で考える

いやいや、日常生活で体幹の動きなんか考えてないよ。

実際、体幹なんてそんなに動かしてないっしょ?

そう思う方もいらっしゃるかもしれませんね。

ここで、子育て経験のない私が、最近知った衝撃の事実をお伝えします。

私たちは人生が始まった最初の数ヶ月の間、手足は存在しないものとして暮らしていたのです!

ていうのは、赤ちゃんが生後3ヶ月以降あたりから(個人差はありますが)、ハンドリガードといって、自分の手足を初めて自分のものとして認識する、ということが書いてあるマンガを見たからです。

それ以前は、手足をバタバタ振り回しつつ、この視界をちらちら横切る腕が、自分の身体のパーツだなんて思っていなかったのかと思うと、ほんとうに不思議な感じがします。

そのあと、いろいろ調べて旧ツイッターでつぶやいたりしましたが、赤ちゃんが自分の手を認識する手段として、指や拳を口の中に入れるというのも新しい驚きでした。

まあ、それはそうか・・・今の私たちは、多くのものを視覚で確認し、さらに手で触れて認識します。けど、その「手」がまだ自分のものと認識されてないのですから、使えるのは口しかないのでしょうね。

確かに、四足歩行の動物は多くのことを口で行っています。

鳥とか、枝をたった数本ずつ口で運んで、巣を作りますよね。

あれ、両手を使えれば、すごくラクだと思うのですが・・・

子どもの頃、「鳥は空を飛べていいなあ」と思ったものですが、翼は腕が進化したものんあので、翼を獲得すると、その代償に手を失います。

おとなの私は、それならやっぱり手の方が翼よりいいや、と夢のないことを思ってしまうのです(もう「翼をください」を純粋な気持ちで歌えなくなりました)

また、別のマンガ(マンガばっかりですが・・・)で読んだのですが、赤ちゃんの動きってほとんどが「反射」だそうです。

モロー反射・哺乳反射(吸啜反射・探索反射)・把握反射・ルーティング反射・共鳴反射・(自動)歩行反射(自立歩行反射)・パラシュート反射・ハビンスキー反射 ・引き起こし反射・ランドー反射・ホッピング反射・ギャラン反射・緊張性頚反射(フェンシング反射)・・・

・・・きりがありません。脳を経ないで生き延びるための動きができるようになっているのでしょうか。

それが、次第に脳による指示によって動くように成長していくのです。

「意識的」に動くことができるようになるのです。

しかし、多くの日常動作は、意識的に動くのではなく、習慣によって無意識に動くようになります。

たとえば、赤ちゃんや子どもの頃にはたいそう苦労したであろう様々な動き――立ち上がるとか(赤ちゃんの時は、きっと立ちあがっただけで拍手喝采で褒められたことでしょうに)、歩くとか、ボタンを留めるとか、靴下を履くだとか、箸や鉛筆を使うだとか、自転車に乗るとか――そういう動作って、いまはそんなに意識しなくてもできますよね。

ぼんやり考え事をしながらでも、手や足は勝手に動いています。

この無意識の身体の使い方は、時には音楽やスポーツなど、意識して動きたい場合にも知らず知らず起こって、時にはそれらの動作を邪魔することもあるのです(いつもではないですが)。

立つのも歩くのも、家事をするのも、ヨガやピラティスや太極拳をするのも、ジョギングをするのも、パソコンを打つのも、二胡をひくのも、ぜんぶ「同じ私」なのです。

だから、それらの「わたしの使い方」には共通点がある。

ある動作に現れる動きや思考のクセは、他の動作にも見られる。

まあ、当たり前といったら当たり前なのですが、それをアレクサンダーを学ぶまで気づかなかった私がいます。

ほんとうに、一つの学びは、いろいろな発見をもたらしてくれるんですね!

※上記の記事は、2025年4月4日4月5日の旧ツイッターのつぶやきを再編集したものです。

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